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春の南紀を行く

愛知の実家にいる母を誘い、ゴールデン=ウィークを利用して南紀地方を車で旅行しました(二泊三日)。例年になく苦しい雪の季節を乗り切った身としては温暖なところへ行きたいという欲求が強く、検討の結果、和歌山県の那智勝浦に決めました。母も私も和歌山県には馴染みが無かったこと、世界遺産の地であること、火山もないのに温泉はちゃんとあること、ちょっと足を伸ばせば本州最南端の潮岬へも行けること、などが魅力でした。塾屋としては世界遺産がらみの社会見学というつもりだったのですが、印象が最も強烈だったのは地形の険しさで、期せずして地学巡検も兼ねることになりました。以下、南紀地方について出発前までに調べたこと、帰って来てから改めて調べて知ったことなども含めてざっとまとめておきます。
国道42号
 ▲国道42号線
那智勝浦町へは、愛知からでは東名阪自動車道-伊勢自動車道-紀勢自動車道-国道42号線というコースが標準的。紀宝町までが三重県、新宮市から和歌山県。愛知県人としてはお隣の三重県のことはなんとなくわかっていたつもりだが、車で走ってみると「なかなか三重県から出られない」という感覚。三重県は南北に長いのであった。
国道42号に入ると道が険しい。特に尾鷲市と熊野市の間がきつい。紀伊半島の南部は山地が大半を占めるので、ある程度予想はしていたものの、すぐそこが海だというのにまるで急峻な峠道を走るように険しい。写真に納めておこうかと思う場所に限って車を停めるスペースがない。舗装された道路があるだけありがたいと思うべきだろう。道幅に余裕はなく、しかも交通量はそれなりにあるので、慎重な運転が必要だ。片道300 km強というところだが実際の距離以上に長く感じられる行程。わが故郷・知多半島の先端付近もわりあい山からすぐ海だけれど、スケールも運転の難度も全然違うのだ。熊野市から先はおおむね海岸沿いに行くので楽になる。
那智勝浦町から潮岬のある串本町まではリアス式海岸で、潮岬周辺はまた山道。随所に標高を示す掲示が出ているのはもちろん津波を警戒するため。潮岬のそばには「橋杭岩」などの奇岩群が続き、見とれていると運転を誤りそうになる。なお、1886年のノルマントン号事件は潮岬のそばで起こったものである。
潮岬
 ▲潮岬
橋杭岩
 ▲橋杭岩
潮岬を訪ねた後、那智山へ向かう。母が若干歩行不自由なので、車で行けるだけ行く。山中の寺社を訪ねるとよく経験する急勾配の山道で、あちこち補修工事中だった。国道42号も険しいが、ここはもう乗用車で走れる限界のような場所。四駆の軽で行くのがお勧めで、8人乗りのワゴンなどで行くのはやめたほうがよい。朝からの断続的な雨で那智山はガスっていたが、那智の滝は道路から上半分が見えた。歩いて滝壺付近まで行けば全貌が見えたわけだがそれは断念。
熊野那智大社
 ▲熊野那智大社
那智の滝
 ▲那智の滝
【メモ】紀伊半島の地質・地形・気候
紀伊半島
 ▲紀伊半島の地形
中央構造線
 ▲中央構造線
和歌山県の地質
 ▲和歌山県の地質
紀ノ川北岸沿いに中央構造線(関東から九州へかけて西南日本を縦断する大断層系)が走り、その南側の大半を紀伊山地が占める。紀伊山地は四国山地と同じく、フィリピン海プレートが南海トラフで西南日本の乗るユーラシアプレートの下に沈み込む際に、ユーラシアプレートの南端を押し上げられることによって形成されたと考えられている。浸食が著しいため地形は険しく、最高峰は1915mの八経ヶ岳(八剣山)と際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われている。
和歌山県内では北から南に向かって三波川帯、秩父帯、四万十帯と呼ばれる地帯が並び、全体に南の方ほど新しい地層で、熊野地方には四万十帯の後に堆積した熊野層群がある。熊野層群は隆起した後マグマの貫入を受けたため火成岩が分布する。この地域の温泉は火成岩の分布と関係があると思われる。
三波川帯…中生代ジュラ紀(約2億年前)、広域変成作用という強い圧力や熱のはたらきにより堆積岩などが結晶片岩などの変成岩になった地帯。
秩父帯…中生代ジュラ紀~白亜紀(約3億~7000万年前)に堆積した地帯。砂岩や泥岩にチャートや石灰岩も混じる。
四万十帯…おもに中生代白亜紀~新生代第三紀(約1億年~2000万年前)にできた付加体(海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込むときに海洋プレート上の堆積物が大陸プレート側に付け加えられたもの)。紀伊半島では北から南へ日高川層群・音無川層群・牟婁層群と呼ばれる地層が並び、この順に新しい。
海岸部には、海食や地質活動の結果生じた、変化に富んだ奇観が多数見られる。新宮市から勝浦湾を経て本州最南端の潮岬まではリアス式海岸の景観を見せるとともに、太平洋岸には海蝕地形(海蝕洞・海蝕崖)がよく発達している。
橋杭岩(はしくいいわ)…大小約40の岩が南西一列に約850 mもの長きにわたって連続してそそり立っている。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることからこう呼ばれている。泥岩層の間に火成活動により、石英斑岩が貫入したもので、貫入後に柔らかい泥岩部が速く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に残されたもの。
この地域は黒潮の影響を受けて温暖である。暖帯常緑広葉樹林(照葉樹林)が分布し、その林床には本来は亜熱帯を本拠とする植物も生育するほどである。また、串本近辺の海域は海中景観に優れ、日本で初めての海中公園に指定されている。イシサンゴ類や熱帯魚類が見られるほか、とりわけ潮岬の周辺や二木島付近ではサンゴが広範に生息している。
【メモ】紀伊半島南部の交通
急峻な山岳が大部分を占めるため、交通の便はよくない。霊場として著名な熊野本宮があるため古くから徒歩および船便が発達していたが、それらが使われなくなった後、それに代替する交通機関に乏しい。いわゆる熊野古道は山間尾根部を縦走しているが、現代的な交通手段ではこれらは利用しがたい。
現在の主要な幹線は海岸線沿いを通るもので、山間部では交通路の発達が悪い。内陸に入る道は、各河川沿いに入るものが多い。北部では中央構造線沿い運行通が発達し、その北ではやや山が少ないため、コースの自由度は高くなる。鉄道は、亀山市(三重県)から和歌山市までの海岸部に紀勢本線があるが、人口希薄地帯が広がるうえ厳しい山岳地形にも阻まれて、紀勢本線の全通は1959年と、主要幹線の中では非常に遅かった。鉄道網は発達せず、特に十津川村などの奈良県南部は広大な鉄道空白地帯となっている。
【メモ】世界遺産
熊野古道
 ▲熊野三山と熊野古道
紀伊山地は険しい地形がよく発達しているため、平安時代以降、山岳仏教や熊野信仰、修験道が非常に栄えた。こうした歴史を背景として、2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。
熊野三山…熊野本宮大社(奈良県本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)、熊野那智大社(那智勝浦町)の3つの神社の総称。仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社。熊野三山への参詣は907年の宇多法皇の熊野行幸が最初とされ、その後、白河上皇が1090年から合計9回の熊野行幸を行ったのをきっかけに、京都の貴族の間に熊野詣が頻繁に行われるようになった。後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は広く庶民も行うようになったといわれている。
熊野古道…熊野三山へ通じる参詣道の総称で、三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨る。明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。
【メモ】那智山
那智勝浦の内陸部にある那智山一帯は、那智原始林の深い自然林を擁し、日本最長の那智滝がある。また、那智滝を神体とする自然信仰を基盤とした聖地でもあり、古来の様相を今に伝えている。
熊野那智大社…野三山のひとつ。朱塗りの拝殿の奥に立ち並ぶ熊野造の社殿は江戸時代に大改修されたもので、国造り神話の神々と那智の滝の神が祭られる。宝物殿には熊野信仰の歴史を伝える貴重な資料や遺宝を展示。
那智の滝…那智四十八滝の中の一の滝であり、那智山の深い原始林を切り裂くように落下する様子は迫力満点。落差133 mは日本一で、最大幅13 m、滝壺の深さ10 m。毎秒1 tもの水量があり、華厳滝や袋田の滝とともに日本三名瀑のひとつに数えられる。古くは自然を崇拝する原始信仰の対象であり、修験道の道場でもあったが、現在は熊野那智大社の別宮・飛瀧神社の御神体として祭られる。
〔メモの部分はWikipediaなどを参考にしました〕

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