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野間大坊

愛知への帰省のついでに,知多郡美浜町野間にある「野間大坊」(のまだいぼう)へ行ってきました。
【この記事は境内の解説とWikipediaの記述を参考にしています】
野間は源頼朝・義経の父である源義朝の最期の地として知られています。1159年,平治の乱に敗れた義朝は関東への逃走中,家臣である長田忠致(おさだ・ただむね)・景致(かげむね)の父子の許に身を寄せます(野間のどこか)。ところが平家からの恩賞を当て込んだ忠致らにより入浴中に討たれてしまうのです。
この時、義朝は「我に木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。後の世の人々が義朝の菩提を弔う(冥福を祈る)ため,花の代わりに木刀を供える習わしとなりました。野間大坊の境内に作られた義朝の廟には、この故事に因んで幅約3cm、長さ役約40cmの木刀が山のように供えられています。
野間大坊は公称「大御堂寺」(おおみどうじ)という真言宗の寺院です。天武天皇(673~686)の時代に役小角(えんのおづの)が建立、聖武天皇(723~749)の時代に行基により中興されたと伝えられます。その後空海が諸国行脚の際に訪れ庶民の幸福を祈ったといわれます。平安時代の承暦年間(1077~1081)に白河天皇の勅願寺となり、このとき「大御堂寺」と称せられました。1190年には上洛途上の頼朝が父の菩提を弔うために寄進を行い、伽藍の整備と大門の造営をしています。さらに豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受けて発展、現在は尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めているとのことです。
境内には義朝の墓のほか,随行していた鎌田政家(かまた・まさいえ)とその妻の墓もあります。政家は義朝暗殺の前夜に殺され,妻はその場で自害したとのこと。
また時代は下って,本能寺の変(1582)で討たれた織田信長の三男・織田信孝の墓もあります。織田家の跡目争いで豊臣秀吉に敗れ,野間まで敗走,この大御堂寺で自害したとのことです。
野間大坊1
▲源義朝の墓
野間大坊0
▲野間大坊の位置

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